友達の日記にインスパイアされて。
私が子供をほしいと思ったのは、自分探しに疲れたからっていうのもひとつの理由でした。アメリカにきて、カレッジ行って働いて、でも思うようにできなくて、この国で自分の居場所が見つからなくてずっと閉塞感を感じていました。もう自分は終わったのかもしれないってくらいに進む道がわからなくなって。それで子供、ってなんて短絡的。ぼんずにも恥ずかしくていえない。それでほいほいと神様が授けてくれるわけでもなく、時間がかかってやっとぼんずが生まれ、あたしはやっと前に進めるんだ、お母さんという仕事をもらったんだ、もう自分探しなんかしなくていいんだって思いました。
でもぼんずが生まれてからというもの、ぼんずと同じころの自分を思い出し、忘れていた過去のあれやこれや、これまでかかわってきた事柄や人たちのことを思い出しました。
それにぼんずと接する中で、自分の中のわだかまりや変なこだわりが見えてきました。たとえばこんなことです。
なぜぼんずが偏食だとこんなに腹が立つのか?
なぜ育児にいつも不安を感じるのか?
なぜ昔の辛いできごとを何度も思い出すのか?
私は私の母と違う育児をしたい。なぜそう思うのか?
それで自分はどう生きてきたか、どんな人間なのかって問題を日々つきつけられるようになったんです。これは予想外でした。自分探しをしたくなかったから子供がほしかったのに、自分と向き合わなければ育児に納得がいかない、ぼんずをぼんずのあるがままに導いてやれないと思ったんです。自分の過去に納得して決着をつけなければ、私のわだかまりをぼんずに引き渡すことになる。いやなものをぼんずになすりつける。具体的にいえば、ぼんずが食べないのを見て私が腹を立てる→腹を立てる根底にあるものがわからないから怒るのがとまらない→ぼんずが食事の時間自体を嫌うようになる とか。簡単に言えば私がハッピーにならなければぼんずもハッピーになれないってことです。、
ほとんどの育児書には、親は我慢しろとしか書いてありません。絶対怒らない、怒りそうになったらその場から逃げなさい、あるいは子どもにタイムアウトという方法をとって遠ざける(子どもによってはこれがいいということもあるかもしれませんが)。どれも私にはできませんでした。
そして私は話すということを学びました。信頼できる人たちに自分のことを話す。話すことで自分で答えを見つける。自分の過去を考察し、それまでとは違う意味をみつけて(あのとき本当はこうだったんだといったような新しい物語を作って)決着する。そうすることで、わだかまりが消えたり、穏やかな気持ちでいられることが多くなりました。そうしてお互いを支えあって誰かとつながっていなければ、子育てなんて絶対できないです。一人で子育てなんて無理です。最近増えている幼児虐待のニュースを見るたびにそう思います。
今はネットで遠い人とともつながることができる。そうして昔はあった共同体の役割をネットで見つけることができるかもしれない。
なんか話が途中で変わった気がするのですが、もう頭が煮え煮えなので終わります。
「そんなおおげさに考えなくても」と読んで思った方は素晴らしいです。きっと過去も今も自分に納得できる生き方ができているのでしょうから。









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